法元寺

法元寺・耳成地蔵・田原育英の地

下田原地内、旧清滝街道筋前川橋北にある耳無し地蔵標柱より北約100メートルの地にあり、法元寺末寺の正福寺、鎌倉期から存在した上田原村の森福寺、神宮寺・千光寺の真言宗系4寺院が明治期の寺院統合によって法元寺に合祀されたもので、合祀された4寺院の仏さんは本堂正面当院本尊仏間の左側仏壇に合祀されている。本堂に鎮座する元文5年(1740)の厨子付き薬師如来、延享元年(1744)の梵鐘、更に数百年続くと伝えられる耳無し地蔵の鎮座から推して、その創建は江戸初期以前と思われるが、明らかではない。幕末期には寺子屋が開かれ、明治6年には田原小学校の開校が当寺院から始まった。

郷土史かるた

ねがいごと (みみ)()地蔵(じぞう)に ()をあわす

 耳のない地蔵さんが、下田原の法元寺内入口に祀られている。高さは30センチぐらい、年代を究めることはできないが、室町か江戸初期のものであろう。「耳無し地蔵」の標識石柱が建って、北へ1丁と記すほどで、耳病全快を祈る信者は、今も絶えないという。

ねがいごと (みみ)なし地蔵(じぞう)に ()をあわす

 下田原の法元寺の境内にある。高さ30センチぐらいで、年代は究められないが、室町か江戸時代のものである。地蔵さんはお堂の中に安置されているが、その前に木箱があって、その中に手向けた小石が山のように積まれている。その小石をよく見れば、どれも小さな穴が開いている。時に糸を通しているものもある。耳を患った人が一週間余り願をかけ、この穴の開いた石を家に持ち帰り、石を祭り、朝夕、患っている耳を石でさすりお祈りをする。治してもらったら、どこかで穴の開いた石をもう一つ探し出して御礼に来る。石を増やすことは、耳の患った人に施しをしようということである。法元寺から100メートルほどいったところに、「耳なし地蔵是より北へ一丁」という石碑が見える。その道しるべの横にも30センチぐらいの耳のない地蔵さんがおいてある。なぜ大きな道しるべがあるかといえば、かなり遠方の人たちまでご利益(りやく)にあやかっていたことが窺える。

わが(さと)の 育英(いくえい)発祥(はっしょう) 法元寺(ほうげんじ)

 田原小学校沿革誌に「明治6年5月10日の創立に係り法元寺本堂を仮用し、堀溝卿学校田原分校と称す」とある。明治11年9月に上田原・下田原の境界である農協前のところに移転し、平成2年9月に現在地に移った。法元寺の開基は江戸初期以前ではないかと言われているが、明らかではない。真言宗で、大日如来が本尊である。「幕末期には秀盛和尚なる傑僧あって、寺子屋を開き、地域社会の啓蒙に務めた」と語り伝えられている。