下田原天満宮

国道163号線と旧清滝街道の分起点から北へ約数十メートル、約50の石段を登ると東西30ートル、南北20メートルで上段・下段の敷地が広がるところにある。平成3年には天神祭(宵宮724日、本宮725日)が復活し、賑わいとともに人の手が入るようになり、平成15年には社殿が改修され、牛の石造も新たに奉納された。なお、平成26年から、本来の本宮の25日直近の土曜日に宵宮、日曜日に本宮が催行されるようになった。


下田原天満宮がいつのころに創建されたかは明らかではないが、現在の田原地区の氏神である住吉神社は文禄年間(15921595)に建てられたもので、それ以前の上田原の氏神は八の坪住吉社、下田原氏神はこの天満宮であったと思われ、村入口に位置するこの鎮守の森、古代から神の住む聖地とされる現在地に天満宮を勧請したのは織田・豊臣期を更に遡ると考えられる。

砂絵とは

大晦日の昼、すべての仕事を終えた後、庭を掃き清め、きれいな更土で庭に「芽出度絵」を描き、正月を迎える行事。田原地区の数軒でこの砂絵が続けられており、下田原天満宮の境内にも描かれる。1月中旬ぐらいまでは見ることが出来る。(写真は平成21年1月3日、下田原天砂絵)満宮境内に描かれた

郷土史かるた

ふとん太鼓(だいこ) (こころ)あらたなり 天神(てんじん)さん

 天神は、平安時代にはもっぱら怨恨(えんこん)の神で、風、雨、水、火を支配し、悪をこらす神であったそうである。本来は天を司る神、天候の神で農民が豊作を祈願するものであったが、菅原道真と同一視され全国いたるところに天満宮として祀られている。道真は、時の政権の敵として大宰府に流される。「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌を詠み、大宰府で没した。その死後、京都には落雷がしきりに起こった。これは道真の怨霊のなせるものだと怖がられ、その霊を慰めるため。「天満大自在天神」の名で北野天神に合祀されたそうである。天満宮が、学問の神様といわれるのも道真が祀られているからである。下田原のお祭は、7月24日宵宮、25日が本宮である。昭和26年に作られた太鼓台が残っていたので、それを平成4年に前の台座を「ふとん太鼓」に作り変えた。太鼓と鐘を鳴らしながら、皆で山車(だし)を弾いて巡行する。

()(ひと)の 信仰(しんこう)あつい 大師堂(だいしどう)

 下田原の天満宮の入口に小さなお堂がある。そこにはお大師さんが祀られている。大師とは、国王の師となりえる人で、朝廷からおくられる称号である。大師といえば、弘法大師のことになってしまっている。それほど弘法大師の信仰が厚い。田原地域も京都の東寺と高野山を結ぶ東高野街道に位置することから信仰を集めている。(下田原の法元寺は真言宗で、田原には、かつては真言宗のお寺が3つあったといわれている。)

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霊場(れいじょう)を 紀伊(きい)から美濃(みの)へ 巡礼(じゅんれい)

 西国三十三箇所巡礼碑をよく見かける。田原では、下田原の天満宮前の大師堂の横、上田原の住吉神社の境内にある。三十三の数字は、観世音菩薩が迷いから救うために33種に姿を変えたという伝説に基づいていると言われている。すなわち人を見て法を説く姿が33変することから、霊場を33箇所選び巡礼するようになったそうである。聖地の巡礼は世界共通である。三十三箇所巡礼は平安中期に始まっている。西国三十三箇所巡礼は、紀伊(和歌山)の那智・青巌渡寺(せいがんとじ)が一番の霊場である。そこから、三十三番の美濃(岐阜)の華厳寺(けごんじ)に至るまでの往復路を巡る。村中にある巡礼碑は、巡礼の満願の喜びを記念したものであるが、その碑文に手をあわすことによって、村人は観音さんの功徳をたくし、日々感謝の思いを新たにしていたのであろう。


天神祭り