照涌野田共同墓地

照涌(てるわき)墓地(ぼち)13仏塔(ぶっとう)

永禄2年 1559

板碑 花崗岩 122センチ×64センチ×27センチ

43

大字下田原 照涌野田共同墓地(東)内

銘文

正面

右/逆修永禄二年己羊(つちのとひつじ)(1559

左/五月十六日(根部に道圓・道西・永心等13人の供養者名あり。)

この十三仏は一段に4体を配置し、それを三段とする珍しい配列となっている。

庶民信仰息づく13仏塔

 十三仏信仰は、南北朝時代から江戸初期に至る300年間、広く庶民に普及したもので、死後の仏事(初七日から三十三回忌まで)を生前自分で供養(逆修)することに始まり、後には、先祖の追善供養のため墓地入口に建てられるようになったもの。

 人間は死後、閻魔大王らの十王より、回忌法要ごとに生前の行為の裁きを受けるとされる。そのときの弁護救済に当たってくださる仏・菩薩を一枚岩石に刻したものが十三仏塔である。人間は33回忌を過ぎれば、祖神になるとの考え方が、古来日本人の死霊感であった。この33回忌法要の仏事成立は、貴族社会では平安・鎌倉期、庶民間への普及は南北朝時代とされる。したがって十三仏建立は南北朝時代に始まり、江戸初期に終る。

 四條畷市内には28ヵ所の墓地があり、十三仏があるのは、中野共同墓地と照涌共同墓地の2ヵ所。十三仏は関西に40基あり、北河内に15基、内四條畷市内に7基の十三仏があり、自治体としては全国最多を誇る貴重な文化財である。

 四條畷市内の十三仏は全部が座像石仏で、6基は三仏・四段と頂点に一仏の形式で、これが一般的であるが、下田原照涌墓地の十三仏は四仏・三段と頂点に一座像で、この形式は全国的にも珍しい。

十三仏菩薩名配列

順次

忌日

仏菩薩名

逆修日

初七日

不動明王

一月十六日

二七日

釈迦如来

二月弐九日

三七日

文殊菩薩

三月弐五日

四七日

普賢菩薩

四月十四日

五七日

地蔵菩薩

五月弐四日

六七日

弥勒菩薩

六月五日

七七日

薬師如来

七月八日

百か日

観音菩薩

八月十八日

一年

勢至菩薩

九月弐三日

三年

阿弥陀如来

十月十五日

七年

阿閦如来

十一月十五日

十三年

大日如来

十一月弐八日

三十三年

虚空像菩薩

十二月十三日

不動明王(ふどうみょうおう)・・・右手に降魔の利剣、左手に捕縛用の縄を持つ忿怒の形相、一切の鬼霊・煩悩を調伏する仏教守護神。

釈迦(しゃか)如来(にょらい)・・・仏教の開祖釈迦如来、「オシャカサマ」と通称する。仏像の諸菩薩は王子時代の釈尊を模すという。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・・・釈迦如来の左の脇士として智恵を司る菩薩。「三人寄れば文殊の智恵」で有名。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)・・・釈迦如来の右に立つ脇士、仏の徳をあらわし、仏の教化・済度を助ける菩薩。

地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)・・・右手に錫杖、左手に宝珠を捧げる石像として造られ、路傍の仏として親しまれている。

弥勒菩薩(みろくぼさつ)・・・釈尊入寂後の56億7000万年後に、この世に降臨して釈尊と同じように成道、衆生済度の法を説くといわれている。

薬師(やくし)如来(にょらい)・・・左手に薬壺を持ち、右手を施無畏印(せむいいん)に結ぶ。衆生の病患を救う仏として、多くの信仰を集めている。

観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)・・・観世音菩薩「世の中の困っている人々の音声を観て、救すけて下さる慈悲深い仏様」と説明される。現世利益の仏として尊崇されている。

勢至菩薩(せいしぼさつ)・・・阿弥陀如来の右脇士、智恵の光で一切を照らし、三途の川で苦しむ者に無上の力を与えて、三途の川を離れさすといわれている。

阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)・・・48願を立てて衆生を済度する仏、この仏を信じ、その名を唱えただけで極楽浄土に往生できると説かれている。

阿閦(あしゅく)如来(にょらい)・・・東方の妙喜世界に生まれ、大日如来の教えを受け修行して成仏し、息災成仏の功徳を有する仏。

大日如来(だいにちにょらい)・・・その智恵の光明は、昼夜の別ある日の神の威力を上回るから大日という。この世のあらゆるものは大日如来の智と理のあらわれとされ、前者を金剛界、後者を胎蔵界と呼ぶ。金剛界大日如来は宝冠を頂き、大智拳印を結ぶ。いわゆる忍者が呪文を唱える時の指の握り方に似ている。

虚空像(こくぞう)菩薩(ぼさつ)・・・「智恵・功徳を蔵すること虚空の如く広大無辺、尽きることなし」とされることからの名称である。


田原(たわら)に残る両墓制(りょうぼせい)

死者を葬った場所に墓碑を建て、そこを永久に祭りの場とするのを単墓制と呼ぶのに対して、比較的短期間祭りをしただけで近寄ることもせず、祭りをするための墓地を別に離れた場所に設ける風を両墓制と呼ぶ。墓制の一般的なものは単墓制で、両墓制を残す箇所として全国に70箇所が報告されている。田原地区には下田原に5箇所、上田原に4箇所の墓地があって、月泉寺の五輪塔・卵塔墓以外は、すべて両墓制の形態をとっている。

 田原では、第一次墓地をオバカと呼び、場所を意味する野墓(のばか)の転化したものか、埋葬を意味する御墓(おばか)の意味と言われている。第二次墓地をタチバカと呼ぶが、祭り場として石碑を立てるところから、建墓(たちばか:立墓)と呼んだ。タチバカが人里に近く、オバカがより離れるのが一般的である。

 この両墓制は、死の穢(けがれ)を忌み避け怖れるところから起こり、浄霊を別の浄地に祀ろうとする観念に起因するものであろう、と言われている。第一次墓地をウメバカと一般呼称するように、土葬地帯に特有な墓制であって、照涌・野田地区オバカのように、卒塔婆や埋葬目印の自然石が濫立するのを通例としている。

 照涌・野田共同墓地は、共同墓地管理委員会が改装を行った結果、第一次墓地・第二次墓地の別はなくなり、単に東墓・南墓となり、両墓制の風情を見ることは出来なくなっている。


郷土史かるた

六地蔵(ろくじぞう) 田原(たわら)十ヵ所(じゅっかしょ) 墓地(ぼち)(まも)

 絵札は照涌墓地の一石六地蔵である。墓地の入口には、必ず六地蔵さんがおられる。普通、六石六地蔵だが、特に照涌墓地にある一石六地蔵(元禄9年・1696年)は珍しいものである。近くには、大東市の龍間に1基ある。「人間は、前世の業(ごう)によって、地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上界の六道を輪廻(りんね)するという。この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。」といわれている。田原には10ヵ所の墓地がある。

うめばかあり たちばかありの 両墓制(りょうぼせい)

 正伝寺の境内に300基以上の石塔がある。ウメバカに対するマイリバカで、寺院で供養するために建っている。現在のような墓標を建てるようになったのは江戸期らしく、それまでは死体を埋めて土饅頭を作り、小さな石を目印において置く程度であった。墓はウメバカ・マイリバカがあって別々だった。その両方を備えている両墓制が照涌(てるわき)墓地。これは珍しいことである。