片田の棚田

 

片田の棚田・貝原益軒の南遊紀行・お月見泥棒

元禄2年(1689)に南遊紀行を記した貝原益軒は、磐船神社を経て田原の里に入ったとき、その思いを次のように記している。

「岩舟より入て、おくの谷中七八町東に行ば、谷の内頗広し。其中に天川ながる。其里を田原と云。川の東を東田原と云、大和国也。川の西を下田原と云、河内国也。一澗の中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす。此谷水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出、ひきき所に流れ、天川となる。凡田原と云所、此外に多し。宇治の南にも、奈良の東にもあり。皆山間の幽谷の中なる里なり。此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也。陶淵明が桃花源記にかけるがごとし。是より大和歌姫の方に近し」

 田原の地を広き谷間の谷と表現しているが、そこには棚田が広がり、河内・大和を結ぶ中継集落地域として開花した。

貝原(かいばら)益軒(えきけん)

 寛永7年(1630)-正徳4年(1714)

 江戸時代前期の儒学者、本草家、庶民教育家、筑前国福岡藩士で、名は篤信。晩年益軒と改めた。19歳のとき二代藩主黒田忠之に仕えたが、怒りに触れ浪人の身となり、7年間の浪人生活の後、江戸に上府し、やがて文治主義を取る三代藩主黒田光之の名で再出仕した。42歳の時「黒田家譜」編纂の命を受け、その改正本を藩主に献上した59歳の元禄元年(1688)、かねて藩に依頼していた「筑前国続風土記」編纂の認可がおり、80歳のとき最終的修正を加え完成した。学問的業績は、儒学のほか、封建道徳を説いた「益軒十訓」のうちで特に有名なのは「養生訓」で、自らの体験に基づき精神的修養と自然療法による健康法を示し、現代に至るまで多くの影響を及ぼした。また生涯にわたり公私共に多くの旅をなした益軒は、十余種の紀行記を書いたが、清新な写実でその地方独特の自然美や産業・地理を記すに至ったのは彼に始まるとされる。貝原益軒は60歳のとき、元禄2年(1689)2月に京都八幡から田原・四條畷を通り、吉野往復の旅をしている。そして、その旅日記を同年5月に福岡に戻り写本「南遊記事」にまとめ、亡くなる前年の正徳3年(1713)益軒84歳の時、版本「南遊紀行」として発行した。田原の地を通ったとき、中国の故事になぞらえ「恰も桃源郷のごとし」と賞賛したことはつとに有名である。

南遊(なんゆう)紀行(きこう)

 江戸時代の儒学者・博物学者・教育家であった貝原益軒が、正徳3年(1713)84歳の時に「諸衆巡覧記」と名づけて版本で発行したものである。しかし、書かれている旅行は、発行の24年前の元禄2年(1689)、益軒60歳の時である。元禄2年2月10日、貝原益軒は京都をたち、洞ヶ峠から磐船街道を通り田原の地を経て清滝越え、和泉、紀州(高野山)を抜け、大和(吉野山)で折り返し、河内から再び四條畷の地(南野・砂・岡山)を通り、2月23日に京都の宿舎に戻るという強行軍であった。この版本には11枚の挿絵があり、一枚の挿絵には四条なわてという大道の向うに正行墓・まんだの池・かりや村が描かれている。

南遊(なんゆう)紀事(きじ)

 貝原益軒が元禄2年(1689)2月に京都から河内を経由して吉野を往復した旅日記を、5月福岡に戻り写本として著した「己巳紀行」の中に収載したもの。写本は3本現存し、その内の一本に書入れをして、版本「南遊紀行」の稿本となったようである。南遊紀行と読み比べると、明らかな誤字や文章表現の訂正以外は、南遊紀事のままでよかったのではないか、と考えられる記述が多い。少なくとも、畑の茶屋から大東市津ノ辺に至る間、四条縄手・四條畷の行については、南遊紀行より南遊紀事がはるかに詳しい内容である。