小松寺跡

小松寺(こまつでら)縁起(えんぎ)

四條畷市の北端、交野市との境界付近にあった小松寺の縁起。和銅5年(712)に草堂を作り石仏を安置したことに始まり、承暦4年(1080)金堂・講堂・食堂・毘沙門堂が完成するが、大治5年(1130)の大風で諸堂や郷蔵、大門が崩れ、勧進の上、承久2年(1220)の開帳の際の文書を掲げて終る。奥書によれば応永26年(1419)僧聖順が借用した縁起を書写しながら書き加え誤謬を正し訓点を加えたもの、とあるので編者は聖順とすべきであろう。「河内国小松寺縁起」と題して「続群書類従」釈家部にも収まる。

郷土史かるた

(けん)(しゅう)の 小松寺(こまつでら)にもねむる 光背(こうはい)五輪塔(ごりんとう)

 1348年(正平3年)1月5日、世に言う四條畷の合戦があった。南朝方楠木正成(まさしげ)の子、正行(まさつら)と足利尊氏の命を受けた高師直(こうのもろなお)との決戦は、巳の刻(午前10時)から申の刻(夕方6時)まで8時間にも及び、敗色の濃くなった楠正行以下34人は腹掻き切って自害した。正行の家臣和田賢秀(わだけんしゅう・源秀)の墓である、南野の塚脇の墓石は、高さ1メートル20センチ、幅40センチほどの位牌(いはい)型で、江戸末期の天保2年(1831)の建立となっている。正面に「和田源秀戦死墓」裏面「むかし問へはすすき尾花のあらし吹く天保2年9月 浪華 永田友之誌」とある。ここの字名は薬師といわれ、村の人は歯神さんとして信仰している。下田原(ゴルフ場の中)の墓石は、舟形光背の一石に五輪塔を陽刻(ようこく→うきぼり)したもので、表に「和田賢秀之墓」とかすかに読み取れる。高さ1メートル、幅35センチ。賢秀の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために、小松寺にも建立したのであろう。

開山(かいざん)の 小松寺(こまつでら)縁起(えんぎ)に 田原(たわら)(ごう)

 『続群書類従・河内国小松寺縁起』によると、「当所、荒山寺と称した。元明天皇の和銅5年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸(13歳)、宗次郎の子熊王丸(11歳)、中四郎の子松若丸(17歳)の三人がこの山に遊び、方五尺の草堂を作ったのが開山の始まりである。」とある。また、「延長3年(925)、小松寺と称する。秦の姉子(40歳)なる人が、亡夫の小松景光供養のために、七間四面の堂一宇を建てた。そのために荒山寺改まって、以後、小松寺と称するに至る。」「保延5年(1139)の再建にあたっては、近郊農村たる田原・大坂(逢坂)・甲可(四條畷)・星田等荘官級有力農民が募金、寄進をしている。」

 出土の瓦(かわら)は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、小松寺は鎌倉期までは盛大を極めたものと思われる。戦国期には山城化した小松寺を小松城と呼んだそうである。この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ケ村組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができた。戦後旧田原中学校が、この校舎を借りて開校した。しかし、あまりの寒さに、その年度内に移転した。