(いわ)(ふね)街道(かいどう)

【街道の概要】

枚方市岡本町の「宗左の辻」(文政9年1826の道標がたっている)が起点で、新天野川橋で東高野街道と交差し、交野市砂子坂(すたこざか)の砂子橋東詰めの道標を見て、私市の旧道に入り、天野川沿いに磐船峡を上り、磐船神社を抜けて田原盆地に入る。生駒市北田原町、天野川の支流、穴虫川の橋の麓に清滝街道との合流地点を示す道標があり、ここが終点となる。

 磐船街道はここから清滝街道と合流し、竜田大橋まで至る。

【四條畷市内のコース】

 貝原益軒の南遊紀行で、磐船街道を通ってきた貝原益軒が田原の地を“あたかも桃源郷のごとし”と称賛したことから四條畷と大変関わりのある街道の一つとなっているが、残念ながら磐船街道は四條畷市域を通っていない。磐船から羽衣橋に出てくる磐船街道は、天野川を挟んだ東側の奈良県生駒市域を通っており、天野川支流の穴虫川で終点となる。



西尾(にしお)米店(こめてん)道標(どうひょう)

古堤街道 1906年

大字上田原478番地 西尾宅南西角

尖頭形角柱 137センチ×24.5センチ×24.5センチ

銘文

正面

右  古堤街道/郡山/奈良

明治三十九年五月建之 大阪府

すぐ古堤街道/住道停車場/大阪道

 大東市中垣内から上田原を経て大和に通じる古堤街道は大正12年に改修され現在の広い道となったが、旧道は用水路に沿って曲折、住吉神社前でも水路に沿って、現在道より20メートルほどの西側を通り、上田原・下田原を結ぶ森山・磐船線に通じていた。この道標は、旧道と森山・磐船線の接点に立っていたが、旧位置より南へ20メートルほど移動し、古堤街道の東側、電柱の影に立っていたが、その後の道路舗装に伴い、道標は遠慮しつつ道路端の露地に建つこととなった。時代の流れの中での人間の智恵の産物は、生かされねばならぬ。当道標もしかるべき適所への移転が希まれる、と山口博氏が「石造物調査報告書」に記している。


郷土史かるた

両国(りょうごく)の (はし)のたもとに 府県(ふけん)境界(きょうかい)()

 天野川が大阪と奈良の国境である。古堤街道と磐船街道が接している天野川の上流に、上田原から奈良県南田原に架かる橋がある。これが両国橋である。そのたもとに2基の府県境界碑が立っている。一つは、年号は書いていないが、明治のもので、もう一つは、「従是西北大阪府管轄」「大阪府奈良縣境界標」「住道郡山線北河内郡田原村大字上田原」「大正十二年十建設」とあり、高さ170センチ、幅27.24センチの角柱である。また、下田原の清滝街道が、奈良県へ入る天野川に架かる「高橋」のところに国境碑がある。「従是南奈良(縣)、従是東大(阪府)」「大正八年三月建設川中央国界」「距奈良縣四里二(丁)、距生駒郡郡山町柳三丁元(標)」と記されている。( )は、50センチほどの埋没部分である。高さ185センチ、幅30センチの角柱である。

西田原(にしたわら) 慶安(けいあん)(かみ)(しも)の 両村(りょうそん)となる

 小松寺縁起帳(久安元年・1145)に、「田原西郷、田原東郷」とあるので、平安期には、天野川を境に大和田原、河内田原に分かれていたようである。「慶安2年(1649)、大坂町奉行曽我丹後の守の再検地を受けて、西田原村は600石の村高となる。2年後には上・下田原に分村され、上田原村273石余り、下田原村325石余りとなり、それぞれ村方三役を置く独立村落となった。分村されても、両村立会住吉神社のもとに結合して、一体感を保ちつつ、太平の江戸期へと入っていく。」と市史にある。両村は天野川上流を上田原、下流を下田原とし、境界は、農協あたりから西へ、室池の東堤を結ぶ山の尾根である。この境界を確かめるため、1月11日に「ほうじさし」という伝統行事がある。(平成27年をもって中止)

中垣内越え(なかがいとうご) 大和(やまと)(つづ)く 古堤(こて)街道(かいどう)

 大東の寝屋川沿い(野崎参りなど有名)から中垣内、龍間、そして田原への古道が大和に続いている。住吉神社前の道が古堤街道である。田原には、大阪から奈良に続く街道が、もう一つ清滝越え大和街道(清滝街道)がある。中垣内越え大和街道(古堤街道)は、山間道であったが、明治30年代に拡張工事がなされ、大正12年に完成した。その完工記念碑が住吉神社内にある。また、平成に入って、より大きく拡張された。「右古堤街道・明治39年5月建立大阪府」「すぐ古堤街道」(すぐとはまっすぐのこと)と彫ってある。高さ130センチの角柱碑が、今森山の交差点近くにある


高橋(たかはし)道標(どうひょう)

清滝街道

大字下田原 高橋(天野川)西南

尖頭形角柱 1919年

193センチ×31センチ×30.5センチ

銘文

正面

従是東大阪府

大正八年三月建設/川中央國界(1919)

従是南奈良縣

距奈良縣廳 四里ニ  /距生駒郡郡山町柳三丁元

 山系では尾根中央部が国境となるが、河川では川幅中央が国界であった。なお、正面の「従是東大阪府」の表現は、明らかに「西」の間違いである。東西南北は道標の建つ位置によっても代わることのない方位であり、なぜこのような間違いが起こったのか疑問に思う。


清滝(きよたき)街道(かいどう)

【街道の概要】

 守口街道の延長線上にある清滝街道は、蔀屋本町を起点に、清滝川沿いに東に進み、途中河内街道、東高野街道と交差し、逢阪峠を越え、下田原を抜けて、生駒市の穴虫川の橋の辺りで磐船街道と合流し、そこから天野川沿いに南に進み、生駒市南田原の出店付近で古堤街道の北側コースと、さらに南に下って生駒市菜畑付近で古堤街道の南側コースとそれぞれ交差、合流し、竜田町の竜田大橋に至る道で、この終点で奈良街道に接続する。

 清滝街道は、奈良時代に行基が開いた別名「行基道」とも言われており、この街道沿いの四條畷市域には多くの遺跡がある。

【四條畷市内のコース】

 西から東へ、寝屋川市巣本南交差点から堀溝に入り東に進むと西村米穀店東に五差路があり、北東に進み鶯関神社前を通って大念寺東の三叉路から四條畷に入る。大念寺側に道標が2本、四條畷市域に入ったところに河内で2番目に古い自然石の道標がある。東に少し進んだところがかつての寝屋川舟運・蔀屋浜があったところ、清滝川北岸沿いに大阪外環状線・蔀屋交差点を横断、市民総合体育館前交差点をさらに清滝川沿いに北東に進み四條畷消防本部前の雁塔・西征戦士招魂碑を右手に見ながら市役所北側を東に進みJR学研都市線の踏切を過ぎ、中野派出所前を通りJA東部四條畷支店横交差点に出ると、道標3基(尖頭形角柱・蒲鉾型角柱・舟形光背)が立つ。道標からさらに東に清滝川沿いに進み、国中神社の鳥居をくぐり約800メートルで国道163号と交差する。整備された古道を通り、途中国道を使い、上水道第2中継ポンプ場から急な坂を登りつめると逢阪五輪塔前に出る。峠から国道沿いに飯盛霊園前を抜け下田原西交差点から旧道に進むと、西川橋の道標(墓石形角柱)、前川橋の道標(角柱)、高橋の道標(尖頭形角柱)と続き、天野川を越え生駒市域に入り左折し、すぐ旧道を北東に進むと約30メートルで穴虫川にたどり着き磐船街道と合流する。穴虫川南に道標(尖頭形角柱)が立つ。


郷土史かるた

ぬれながら 旅人(たびびと)守る(まも) 西川(にしかわ)大吉(だいきち)(おう)

 下田原の戎川沿いに珍しい墓型のした道しるべがある。この道は、清滝越え大和街道(清滝街道)である。石碑に「右なら郡山道 左やましろ すぐ大坂」「家紋・西川大吉」台石に「油若中」(すぐ→まっすぐのこと。若中→青年組織)「弘仁二戌己七月」(1845年江戸末)と彫られている。故西川大吉の衆生の善行追善供養として故人を偲ぶ油若中の人たちが建立したものであろう。四條畷郷土史カルタは「ぬれながら 旅人守る 道しるべ」とあり、大東市の方は「右ひだり 『すぐ』と教える 道しるべ」と謳っている。