田原城址

南北朝時代から戦国時代の城館跡。飯盛山から東に延びる標高178.6メートルの尾根上にあり、本丸跡は南北26メートル、東西7メートルほどの削平地にある。周囲との比高差は30メートルほど。本丸と二の丸を区切った堀切りは深い溝を掘って大勢の敵が一度に攻めてこないように工夫がしてあり、水攻め対策の隠し井戸は人目のつかない場所にある。地元で殿様屋敷と伝わる屋敷跡では深さ7.2メートルもある石組み井戸が発見されている。

 北西の尾根は飯盛山城に続き、城の周囲は空掘・天野川・北谷川で護られ堅固な城の造りとなっている。城主が弓矢の練習をしたと伝わる「矢の石」が今も残る。飯盛山城に通じる城内道筋に夜泣き地蔵が祀られている。



 郷土史かるたより                       

書翰しょかんにのこる 田原たわらキリシタン なぞのこる

1582年には国内信徒数15万)の信徒があり、教会、十字架が田原地区がキリシタンとして登場するのは、15768月のフロイス書簡(手紙)に「コカ(甲可=四條畷のこと)、三箇、若江、タワラ(河内田原)及び堺の市のキリシタンの大多数の・・・」の一節のみに出ている。詳しいことは全くわからないようである。ザビエルの来航に続いて、数多くの宣教師が来て、各地に布教している。四條畷では、砂、岡山に3,500建って盛況だったことなど領主・結城(ゆうき)氏の名とともに耶蘇(やそ)会士通信文の中に伝えられている。四條畷郷土史カルタでは、「砂、岡山の キリシタン 異国(とつくに)の文(ふみ)にのる」とうたっている。


郷土史かるたより 

弓矢(ゆみや)なく 本丸(ほんまる)(あと)に (はち)(つぼ)住吉(すみよし)さん

 八の坪は、小字(こあざ・地名)としてはない。台帳では、「土居の内」となっている。標高150メートルの水田地帯より、30メートルほどの土の砦をめぐらした中世の城郭(じょうかく)である。いわゆる丘城の田原城である。ここを八の坪といっている。また、この山は、生駒山系にあり、村人は城山といわないで、「住吉さん」といっている。本丸跡に、古い、小さなお社(やしろ)がある。磐船神社の分祀(ぶんし)で、古堤(ふるづつみ)街道沿いの住吉神社(石風呂のあるところ)より古いものである。


郷土史かるたより 

そそり()つ ()原城(わらじょう) 門口(もぐち)()(いし)(かくし)井戸(いど)

 城といえば、大阪城のような天守閣を連想するが、中世にあっては、山城・丘城をいう。戦いになるとここにこもる。田原城は田原対馬の守の拠点で、この山を村人は城山といっている。「門口」といわれる付近には、小さな川に3メートル幅の橋がかかっている。頂上の本丸跡の近くに隠し井戸がある。本丸から古堤街道を見ると道の向うに大きな石が見える。それを的に弓を射る練習をした「矢の石」がある。



田原城阯周辺を整備しました。山城の存在感を感じます。

NPO法人 桃源郷のさと 理事一同で周辺の木を伐採しました。是非一度お立寄り下さい。

⇓  伐採前 

⇓  伐採後

⇓  伐採前

⇓  伐採後